17
お久しぶりですねユウさん。お元気でしたか。
けたたましいブレーキ音を立てて公園の前に急停車し、転がり落ちんばかりに車から降りたユウを、北野は対照的な悠然たる微笑をもって迎え入れる。
そんな計画は、彼の姿を一目見た瞬間に崩壊した。
「久しぶりだね。北野くん」
ユウが言葉ばかり紳士的に、歪んだ笑みを浮かべた。半ば怒りが燃え、半ば性欲が滾る、そんな笑い方だ。
ぞわりと北野は総毛立つ。今すぐ走って逃げ出したい。しかしこの小さな公園の唯一の入り口は、ユウが運転してきた黒い軽のミニバンにふさがれている。健常者のユウと、五日にも及ぶ徒歩の旅で疲れ果てた義足の北野。追いかけっこの結末は火を見るより明らかだ。第一、錆だらけのベンチに座った北野の足腰は、まるでセメントで固められたかのように動かない。
昨晩、そして今日、ユウと通話をしながら「なんだ」と拍子抜けしていた。
なんだ、こんなものか。
俺はてっきり、ユウとの出来事がトラウマになっているのだと思っていた。彼の声を聞くだけで、ガタガタと震えが止まらなくなるのではないかと危惧していた。
それなのに、なんだ。なんともないじゃないか。
よくよく考えれば、俺は何もされなかったのだ。
未遂に終わったのだから、トラウマになどなるはずがないのだ。
そう思っていた、のに。
「北野くん。こっちにおいでよ」
公園の入り口に立つユウが手招きをする。七月の十九時半は薄明るい。遠目にも、ユウの股間が窮屈そうに膨らんでいるのがはっきりと分かる。あれは俺に向けられたものなのだと思うと、恐怖と嫌悪感で全身が凍りつく。
北野は首を横に振ることも、頷くこともできない。つい先ほどペットボトルの水を飲んだばかりなのに、急速に喉が渇いて一言も言葉を発せない。
しょうがないなぁ、とユウが呆れたような微笑を浮かべて歩み寄る。
ざり、ざり。
スニーカーで土を踏む音。北野の脳が現実逃避をするようにぼやけ出す。
自身が今、埼玉県の公園にいるかのような錯覚。
あの日のユウは、スーツに革靴だった。
広々とした公園の駐車場。大きな園内マップの前に立つ北野を、ユウが半信半疑の表情で見る。「北野くん?」と不安そうに呼びかける。
幻影が消える。現実に引き戻される。
山梨県の寂れた住宅街の小さな公園。次第に空は暗くなり始めているのに、空き家が多いのか、窓に明かりのある家はおそろしく少ない。半袖にチノパンのユウが、ギラギラと目を血走らせながら一歩ずつ確実に距離を詰めてくる。
ざり。
ユウが北野の前で止まった。黙っていてはおかしい。何かを言わなくては。
薄く唇を開く。「おっと」とユウが北野の口に右手の平を押し当てた。北野の体が大きく跳ねる。嘔吐しなかったのが不思議なぐらいだ。
「叫ばないでよ」
ユウの目は笑っていない。北野は「叫ぶつもりなどない」と意思表示をしたいが、口がきけない。
「あのときはさぁ、俺、びっくりしたよ」
ユウが北野の隣に腰を下ろす。古いベンチが、ギッ、と大きな音を立てる。ヒッ、と北野の喉から笛のような悲鳴が鳴る。
「きみに呼ばれて行ったのに、きみが大声で助けを求めるんだから」
「……あれは……」
カラカラの喉からなんとかそれだけ絞り出す。あとが続かない。夏だというのに、唇がパリパリに乾いて今にも血が噴きだしそうだ。
早く何かを言わなくては。うまい言い訳をしなくては。ただちにユウを聖人に変える魔法の呪文は?
昨晩彼に電話をして、すぐに着信拒否を解除しておけばよかった。いたずらに彼を怒らせる言動などをするべきではなかった。そうすればユウが優しく北野に金を握らせて帰ってくれた可能性だって、いや、いや、そんなことはありえない。
電話をかけるべきではなかった。
俺は、彼に、電話をかけるべきでは、なかったのだ。
あとの祭りだ。
「分かっているよ。友達にはめられたんだよね」
ユウが北野の耳に唇を寄せ、ねっとりと囁いた。北野はもう五日も風呂に入っていない。ユウが顔をしかめて飛びのいてくれないかと期待したのだが、昂った彼は体臭に頓着する素振りもない。
「きみが呼んだはずなのに、写真通りの顔だから絶対にきみなのに、俺が声をかけても全然きょとんとしているんだもん。友達が勝手に呼んだんだよね。かわいそうに。悪質ないじめだよ。そりゃあ家出もしたくなるさ。でももう大丈夫。俺はきみの味方だからね」
黙っている北野に構わず、ユウはべらべらと述べ立てる。つう、と彼の手が北野の腿を這う。
あの日。
栗本たちに写真を撮られた翌日。
北野は昼休みに彼らに呼び止められ、今日の十八時半に△△公園に来い、と命じられた。
「なんで?」
「いいから」
「きみたち今日は部活でしょ?」
誰も来やしない△△公園で一人待ちぼうける北野をあざける、そんな光景が浮かんで嫌な気持ちになる。行きたくなかった。しかし、小林は「その時間には終わるから」と粘った。
「絶対来いよ。来なきゃ杉崎にあの写真見せるからな」
杉崎、とは二年から同じクラスになった女子の名だ。今年も栗本らに学級委員に推薦された北野を見て、「じゃあ、私女子の学級委員やる」と立候補してくれた。彼女が女友達に、夏休みの前に北野くんに告っちゃいなよ、とからかわれているのを何度か見たことがある。結局、彼女に告白をされることはなかったのだが。
クラスメイトに、とりわけ杉崎にあのみっともない写真を見られてしまうのかと思うと、公園に行かないわけにはいかなかった。
公園の駐車場にある園内マップの前で待て、と栗本たちは言った。園内にはそれなりに人がいるのだろうが、このあたりは徒歩か公共交通機関で移動するものが多く、駐車場は閑散としていた。
駐車場に黒い軽のミニバンが停車した。北野はなんとはなしにそちらを見る。水戸ナンバーだ。平日に茨城県から埼玉県の、広くて緑は多いものの観光地でもなんでもないこの公園にわざわざ来たのか、と少し奇妙に思う。
車からよれよれのスーツの男性が降りた。
彼はまっすぐに北野を見つめながら、どこか落ち着かない様子だった。
「北野くん?」
男が確かめるように名前を呼んだ。北野は記憶力には自信があったが、その男の顔にはまったく見覚えがなかった。どこで出会った人だろう。規模の大きなボランティアやシンポジウムで、会話はせずとも空間を共有した人物だろうか。内心首をかしげながらも、とにかく「はい」と返事をする。にわかに男の頬が紅潮する。
「うわあ、うわあ、俺です。ユウです。うわあ、もう、写真で見るより全然かわいいね。女の子にもモテるんじゃないの。きみみたいな子が、ねぇ」
興奮した男が北野に駆け寄り、手を握る。
「あの」困惑する。「なんでしょう」
「いいよ、そんなしらばっくれなくても。照れてるのかな? ここじゃなんだから、ね。車でする? それともホテルに行こうか?」
「ホテルって、え?」
男は尋常ではない力で北野の手を引き、車に乗せようとする。北野は混乱しながらも、これはまずいと直感する。これはいけない。車に乗ったが最後、取り返しのつかないことになってしまう。
「ああ、ね、そんな不安そうな顔しないで。大丈夫だから。俺優しいし、うまいし、もちろんホテル代も全部おごるから」
北野は矢庭に男の手を振り払った。大きく息を吸い込む。
「助けて! 助けてください! 誰か!」
大声を張り上げ、早歩きで園内へと向かう。義足の北野は走れない。おそらく健常者である男に全速力で追われればひとたまりもなかったが、土を蹴る音、ドアの開閉音、エンジン音、車の走り去る音——、幸いにも男は逃げ出してくれたようだ。
「どうしたの!?」
北野の叫び声を聞いて、シーズーを連れた老婦人が息を切らせて駆けつけてくれた。少し遅れて、散歩中らしき二十代のカップルも寄ってくる。北野はバクバクと跳ねる心臓をなだめながら駐車場を振り返る。樹木の隙間から見える駐車場に、もう男の車はない。
「えっと、その、変な人に絡まれたんです」
「変な人?」
「カツアゲっていうか」
「ええ? 大変じゃない! その男は? どこへ行ったの?」
「車で来てて、俺が叫んだから逃げちゃったみたいなんですけど」
カツアゲではない。あれはカツアゲではなかった。
しかし、男である自分がそういった被害に遭いかけたということに現実味が湧かず、本当のことはとても言えなかった。
「おー、北野、どうしたの」
ざくざくと、栗本たちが姿を現した。「えっと」と北野は惑う。シーズーを連れた老婦人が「お友達?」と聞く。
「そうです。北野、なんかあったの?」
「カツアゲされたんだって」
カップルの男が言った。「え?」と清水が空々しい声を出す。
「マジ? 大丈夫?」
「……大丈夫。何も取られなかったから」
茶番のような会話をした。
友達が四人も来たのなら安心と、カップルと老婦人は去っていった。彼らの姿が見えなくなると、渡辺に「何やってんだよ、バカ」と小突かれた。
「……何が」
「あの男、ヘンタイだよ。昨日お前の画像アップしてさぁ、みんなキモいキモい言ってんのにあいつだけベタ褒めで、会いたいから連絡くれってメアドまで書き込んだんだよ。それでやりとりして、あぁーあ、お前が逃げなきゃ三万ゲットできたのに!」
彼らが仕組んだことだと勘付いてはいた。それでも栗本にまくし立てられ、頭が真っ白になった。鼓膜の外に何かもう一枚膜が張ったかのようで、「またスレ立てする?」「出会い系とかのがいいのかな」という彼らの声がいやに遠く聞こえる。
三万? 三万だって?
それはなかなかの大金だが、小遣いがあるし、別段金には困っていないため、おかしな行為をしてまでそんなものはいらない。
第一、北野がもらえるわけではないのだ。北野があの男に渡されて、そして、栗本たちにもぎ取られるのだ。
栗本たちの小遣いのために、俺が変質者に犯されろって?
狂ってる。
それどころか、彼らは変質者に北野を差し出して小遣いを得る計画をまだ諦めていない。
今後は栗本たちに待ち合わせを命じられても、絶対に行きたくない。
だけど、来なければクラスメイトにあの写真を見せると言われたら?
変質者に襲われるか。クラスメイトにおかしな写真を見られるか。
変質者から逃げればいい。しかし、今日は無事に逃げられたが、毎回そううまくいくとは限らない。逃げればクラスメイトにあの写真を見せるぞと言われたら?
それにだ。あの写真には北野の顔が写っていないはずなのに、男は北野の顔を知っていた。北野は直接あの写真を確認したわけではないけれど、巨体の渡辺が胸に乗った状態で脚側から写真を撮られたのだから、はっきりと顔が写っているはずはない。ということは、顔が鮮明に写っている別の写真を、栗本たちが男に送ったということだ。
変質者に顔がばれている。苗字もばれている。苗字と《義足》で検索すれば、北野の住所が埼玉県○○市まで分かる。ボランティアや交流会などの活動ページに掲載されているからだ。
一度は逃げきれたとして、写真をもとに○○市内をくまなく探し回られたら? 変質者が一人ならかいくぐれるかもしれない。二人三人と増えていったら?
「何ボサッとしてんだよ。今日はもう用なしだから帰れよ」
ドッ、と渡辺に背中を叩かれた。とても強い力で、北野はバランスを失って地面に崩れ落ちた。四人がぎゃはぎゃはと笑いながら去っていく。
鼻の奥がツンとして、上を向いた。足早に駅へと向かい、帰宅する。
いつもなら母親が「おかえり」と出迎えてくれるのだが、今日は知り合いの講演会とやらで二十二時頃まで帰ってこない。父親も出張でいない。北野は一人きりの家に入る。
家に着くまでの間、ひっきりなしに唸っていたスマートフォンをようやく見た。
不在着信二十九件。すべて知らない同一の番号からだ。
呆然として、すぐに悟る。あの男だ。ユウといったか。
きっと、メールでユウに「どういうことだ」と詰め寄られた栗本たちが、苦情はこっちに言えと北野の電話番号を教えたのだ。
ぱっと着信の画面に切り替わった。
ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ。
不在着信と同じ番号がディスプレイに表示される。胸がむかむかする。
通話を拒否するボタンをタップし、続いてその番号を着信拒否に設定する。指が震えてうまくできない。なんとか終えると、耐えられなくなって玄関にうずくまる。苦しい。涙があふれる。止まらない。
どうすればいい? どうすればいい?
這うように自室に向かい、義足をつけたままベッドに倒れ込む。誰かに相談したい。誰かに話を聞いてほしい。
誰に? 両親に? 教師に? 塾やボランティアの友達、はたまたクラスメイトに?
俺はもうずっと前から、みんなが俺の友達だと思っている渡辺たちにいじめられています。去年、階段から突き落とされました。昨日裸の下半身の写真を撮られて、今日それを餌に変質者をけしかけられました。
見知った人にそう説明する場面を想像すると、とても無理だと思った。そんな恥ずかしくてみじめなこと、絶対にできない。
しゃくりあげながらスマートフォンに手を伸ばす。適当なチャットアプリをダウンロードする。
誰でもよかった。北野のことを知らない人間なら誰でも。北野を知らない、無責任な誰かに、ほら話のようにで構わないからただ話を聞いてほしかった。今すぐどこかにぶちまけないと、心が破裂してしまう。
名前を《☆》とし、自己紹介欄にも同じ記号を打ち込む。決定ボタンを押すと、ずらりと自己紹介の並ぶ画面が表示される。
《一緒に自殺しませんか?》
上から三つ目の人物の、その一文に目が釘付けになった。
驚きのあまり涙が止まる。次に、じんわりと心が温かくなる。
ああ、なんだ。俺は誰かに話を聞いてもらいたいのだと誤解していた。
そうではなくて、俺は死にたいのだ。
心が凪いだ。《龍》と自殺の日取りを決めると、すっかり落ち着いて風呂に入った。風呂から上がると母親が帰宅していた。彼女は冷蔵庫を覗いて「あら」と言った。
「星、夕飯を食べなかったの? せっかくオムライスを作っておいたのに」
「ああ、ごめん。塾で自習していて、さっき帰ったところだから。今から食べるよ」
北野は平気な顔で言った。
「……どうしたの。大丈夫?」
ユウに手を引かれてベンチから立ち上がらされた北野は、バランスを崩して地面に座り込んだ。バランスを崩して? 否、腰が抜けたのだ。
「ここだといつ誰が来るか分からないから落ち着かないよ。暑いし。ね? 車でゆっくり話そう?」
がっちりと、ユウの手には絶対に逃がすものかという執念がこもっている。北野はその手のほどき方を知っている。小学四年生のときに、体育館で行われた『不審者に遭遇したら』の授業で習った。なのに行動に移せない。
だって、逃げるってどこに?
あの死にたくなる日常に? 成し遂げられない自殺の旅に?
こいつに犯されたくない。こいつに殺されるのは嫌だ。だけど、もう、だって。
「ね……、何泣いてるの」
中腰で北野の手をつかんでいたユウがしゃがんだ。北野の頬にはいつの間にか生ぬるい液体が伝っていた。
ユウが右手に北野の左手をつかんだまま、左手を北野の頬に伸ばす。触れる。彼が目を細めて顔を寄せる。嫌だ。嫌だ。
北野は衝動的にユウの股間に右手を伸ばしていた。
唇が触れる直前、彼の睾丸のあたりを全力で握り潰す。熱く張った嫌な感触。ギャ、とユウが轢かれたカエルのような声を上げる。左手の拘束が緩む。
北野は思いきり手を引き抜き、身をひるがえす。
まだ立てない。公園の入り口に向かって這う。がん、と頭に衝撃。殴られた。ユウが北野の肩をつかみ、仰向けに引き返すと覆いかぶさる。
「お前、なあ、お前、人が優しくしてりゃつけ上がりやがって」
ユウから逃げて、そして?
その先は分からない。だけどとにかく逃げなければいけない。
義足の男子中学生を抱くために、仕事帰りに三万円を握りしめて茨城県から埼玉県まで駆けつける。挙句仕事を休んでまで茨城県から山梨県までやってくる。重ねて言うが、義足の男子中学生を抱くためにだ。
俺は死にたい。手段はなんだって構わないと思っていた。だけど、ユウに凌辱されて殺されるのだけはごめんだ。
まだ動ける。北野は両の拳を組むと、ユウの鳩尾に打ち込んだ。ユウが呼吸を詰め、すぐに拳を振り上げる。ガン、とまた頭に衝撃。
「お前、なぁ、お前」
ユウはショルダーバッグからガムテープを取り出し、乱雑に北野の口をふさいだ。もとより声は出ないのだからたいした問題ではない。ユウは北野の両手をガムテープで束ねて拘束しようとする。北野はめちゃくちゃに両腕を動かしてそれを阻む。ユウがもどかしそうに顔を歪め、「お前、なぁ、お前」と北野の頭に続けざまに拳を振りおろす。
顔の真上に振り上げては、ガツンと頭に落とすのだ。
好みの顔に極力傷をつけたくない、という下心が透けて見えて気持ち悪い。ガツン、ガツン。意識が遠のく。ここで気絶して車に押し込まれたら終わりだ。まだ動ける。まだ。
ざん。
首元に冷気が走った。
「お前、なぁ、いい加減にしろよなぁ」
本能的に動きを止めた北野は、顔を動かさずに視線だけをそちらに向けた。
刃渡り十五センチほどのナイフが地面に突き刺さっている。北野の首は切れていない。
ユウは地面からナイフを引き抜き、ぴた、ぴた、とブレードの側面で北野の首を叩く。ブレード越しにぶるぶると彼の手の震えが伝わる。北野をおどすために持ち出したのだ。殺すつもりはない。少なくとも、今のところは。
ユウからナイフを奪って突きつけ返してやれ!
北野の頭の中でそんな声がした。しかし、一度勢いを失った北野は、もはや指の一本すらも動かすことができなかった。
ユウはナイフをぴたぴたやりながら、引きつれた笑みを顔面に貼りつけて北野の顔に唾を飛ばす。
「お前、なぁ、お前、そんなだからいじめられるんだよ。なぁ。全部お前が悪いんだ。そうだろ。な。俺が教育してやる。俺が教育して、」
ドグッ。
鋭く、それでいて鈍いような、変な音がした。
ユウがちょっと目を開く。おや、という顔をして、ナイフを持った手を地面につくと、もう片方の手で自身の首筋に触ろうとする。成し遂げる前に、どしゃっと北野の上に崩れ落ちた。
「誰こいつ」
北野は声のした方を見上げる。「いってぇ」と親指の腹を人差し指の側面で擦り、「あーびっくりした」と続ける砂日はさして驚いた顔もしていない。
「こいつ、誰?」
北野が返事をしないものだから、砂日はせっかちに問い直した。
北野はなんだか夢心地で、ユウの下から這い出た。ユウの体はまだあたたかく、ぐんなりと重たい。
地面に座り、己の口に貼られたガムテープを剥がした。口をもごもごさせ、何度か唾を飲み込んでから試しに開く。声が出るようになっていた。
「くるま、貸してくれる人」
「もっとまともなやつに頼めよなぁ」
砂日が呆れたように言った。
「まともな人は、家出中の無免許の中学生に車なんか貸してくれないよ」
正論を返す。砂日はつまらなさそうに無視をして、「でもよかったじゃん」と公園の入り口を見る。
「車ゲットできたから」
その顔は虚勢や開き直りではなく、当たり前に平然としていた。そのまま車に向かいかけた彼を「あ、ちょっと」と呼び止める。
「ん?」
「俺の自転車のリュックから、ビニール袋とビニール紐持ってきて。開けてすぐのところに入ってるから」
「なんで?」
「無人島じゃないんだから。こんなところに置いていったらすぐに捕まるよ」
ユウを指差す。ユウの首筋にはキリが刺さっていた。
かすめて首に傷ができたのではなく、金属の部分が見えなくなるほど深々と刺さっている。その具合から、砂日に一切の躊躇がなかったことが見て取れてぞっとする。
指摘されて初めてそれに気が付いた、という顔で砂日は「ああ」と言った。
「でも、なんで俺? 俺手ぇ痺れて痛いんだけど。お前が行けばいいじゃん」
「腰が抜けて立てない」
「なんだそれ」
笑って、砂日は公園のトイレへと向かった。
小さな公園だ。たいした距離ではない。ほどなくビニール袋とビニール紐を手に戻ってくる。
「で、どうすんの?」
「袋に入れて車に乗せよう」
「袋に入れるって、げぇ、こいつ持ち上げろとか言わねーよな?」
ユウは中肉中背だが、それはつまり六十キロ前後はあるということだ。北野は首を横に振った。
「言わないよ。砂とか入って全然いいから」
「じゃあいい」
砂日が頷いて、こちらにビニール袋を差し出した。
受け取って一枚取り出し、ユウの足元からビニール袋を被せていく。
死ぬ前からにじんでいたのか、死んだ瞬間に漏れたのか、はたまた死んでしばらくするうちに漏れたのか、彼の股間にはねっとりとした染みができていた。
北野は顔をしかめる。ユウの腹のあたりでビニール袋が終わる。砂日は立ったままぼけっとそれを見ている。
「袋、二重にしてくれない? もう一枚同じところに同じように被せて」
ビニール袋を一枚手渡すと、彼は面倒そうにしながらも「はいはい」と従った。
その間に北野はユウのショルダーバッグを外し(金目のものが入っているかもしれない)、頭の方からもビニール袋を被せていく。
刺さったキリはそのままにした。引き抜いたところで、それを工具として再利用するのは嫌だ。上半身の二枚目のビニール袋は自分でやった。その方が早いからだ。
さて。
ビニール袋に収まったユウを見下ろす。荷造りといえばビニール紐、という安直な発想で砂日にビニール紐も持って来させたのだが、この場合はガムテープの方が適当かもしれない。
地面に転がったユウのガムテープに手を伸ばす。
上下のビニール袋は、ユウの腹から腿のあたりで重なっていた。ガムテープで上下のビニール袋を貼りつけていく。死後に全身からじわじわと出てくるであろう体液が漏れ出さないよう、隙間なくぴっちりとだ。
「あ」
砂日が苦々しい声を出した。「ん?」と北野は目を上げる。
「それさ。車に乗せるときどうせ持ち上げるんじゃん」
「気付いちゃった?」
「気付いちゃった、じゃねぇよ」
砂日が顔をしかめる。
「お前、そろそろ立てるだろ? お前も一緒に持ち上げろよな」
「それはもちろん」
北野はベンチに手をかけて立ち上がった。
足腰の状態を確かめるために何度か足踏みをする。よし、大丈夫。
現在地から公園の入り口までを見る。
小さな公園だ。ここから入り口までせいぜい二十メートルぐらいだ。大人の死体とはいえ、中学生が二人がかりで頭側と足側を持って運べばそう困難な道のりではない。無論、二人が健常者ならば、の話だが。
しゃがんで、重たい死体を両手で持ち、せーののかけ声で立ち上がる。
これは北野には無理だ。
そもそも義足の構造上しゃがめない。重たい荷物を持って歩くことも非常に苦手だ。義足で歩くバランスはとても繊細なため、簡単に膝折れを起こして座り込んでしまう。
今更ながら、旅の初日に重たいリュックサックを背に立ち上がって歩いた自分が信じられなかった。火事場の馬鹿力というか、あの日は自殺旅行の門出に相当浮かれていたのだろう。
とにかく、北野にとってユウの死体を抱えて運ぶことはかなりの難関であり、砂日だって片方しか手がないのだから、重たい荷物を運搬することは不得手なはずだ。
砂日一人で、しゃがんだ状態で地面に転がったユウを押し、入り口まで引きずっていってもらう? これは可能かもしれない。しかし彼のことだ。「なんで俺ばっかりそんなしんどいこと」とごねにごねるのが目に浮かぶ。
自転車の荷台と死体を紐で繋げ、自転車ごと公園の入り口まで引いていく?
これがベストかもしれない。
北野は足早にトイレへ自転車を取りに行き、ベンチに戻るとスタンドを下ろした。
ちらと道路に目をやる。人っ子ひとりいない。だが、いつ誰が通るとも限らない。
地面に足を投げ出して座り、手早くユウの腿の膝寄りにビニール紐をくくりつける。自転車に繋げるだけの余裕を残してニッパで切る。続いて上半身。胸のあたりがいいかなと頭で考えながら、知らず彼の首に紐を一周させていた。ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、と絞める動作を繰り返す北野を見て、砂日が「何やってんの?」と変な顔をする。
「え? ああ」
彼に指摘されて初めて、北野は己の行動に気が付いた。
何をしているのだろう? 確かめていたのかもしれない。ユウが本当に死んでいるのかどうか。万が一を考えて、とどめを刺していたのかもしれない。だって、ユウの死に様はあまりに呆気なかったから。
心配せずとも、何度首を締めたところでビニール袋が暴れ出すことはなかった。気絶をしているわけでも、やられたふりをしているわけでもない。ユウは死んでいる。首は人間の急所といえど、キリという細い物体で即死するなど、よほどあたりどころがよかったのだ。
気を取り直してユウの胸にビニール紐を巻き直しかけ、いや待てよ、と考え直す。
今の今まで、上空から見て自転車と死体が垂直になるように配して運ぶつもりでいた。だがそれでは、公園の入り口に横付けしてある車の後ろまで死体を引いたあと、頭ないし足のどちらかを車のそばまで引き寄せる手間が生じる。すぐに済む作業ではあるが、連日の旅で疲れているため、体力の消耗は少しでも減らしたい。となれば、上空から見て自転車と死体が一直線になるように繋げて引くのが得策か。
その場合、胴体に紐を巻いてしまうと、引っかかりが少ないため途中でずるずると外れていってしまいそうだ。となるとやはり首だ、と改めてユウの首にぐるぐると紐を巻きつけてきつく縛る。腿の紐はそのままに、首の紐を自転車の荷台に結ぶ。ベンチに手をかけると立ち上がった。
「あのさ、砂日、この自転車をね、俺と一緒に公園の入り口まで引いてくれない?」
「別にいいけど」
それほど大変そうではないためか、砂日はすぐに了承してくれた。
死体を牽引する自転車を二人がかりで引いていく。重たいことは重たいが、さして労なく公園の入り口に到着した。
北野は荷台の紐を外し、車のバックドアを開ける。車のフレームに手をかけて体を支えながら、身を屈めて死体の首側の紐を手に取った。「砂日、そっちの紐持って」と腿側の紐を指す。
「ん」
このまま上に持ち上げて、と指示しかけ、思い直して「紐、交換しよう」と提案した。紐を真上に引くよりも、斜めに引く方が楽に持ち上げられる気がしたのだ。砂日は「うん?」と唸りながらも従う。
「せえので持ち上げるよ。せえ、の!」
「うおっ、と!」
どさっ、と力任せに一発で死体を車に押し込むことに成功した。
押し込んだ直後に膝折れを起こし、北野は「うわっと」と尻餅をつく。
ふと見ると、砂日が初めて逆上がりに成功した子供のような顔をこちらに向けていた。おかしくなって「やったじゃん」と親指を立ててやる。
「すごくね? 一発成功! こんなデカくて重いのに!」
「すごいすごい。きみのおかげだよ。さすがだね」
北野が小さく手を叩くと、砂日は誇らしげに胸を張った。その目は『すごく大変なことを成し遂げたぞ』という達成感に満ちていてかわいらしい。
「で、あとはこれ」
立ち上がって、自転車とその上に乗ったリュックサックを指した。砂日は「ええ」と不満の声を漏らしたものの、その顔は未だ上機嫌ににやついている。
荷台にぐるぐる巻きにしたリュックサックを外すため、フロントポケットからニッパを取り出しかけて、そうそう、先ほど使ったのだと公園のベンチに取りに戻った。ニッパと、地面に転がしていたユウのショルダーバッグ、ガムテープ、ビニール紐とビニール袋の残りを手に車へ戻る。
ひとまず助手席にニッパ以外の手荷物を放り込む。後部座席のスライドドアを開け、自転車を横づけする。ニッパでリュックサックを固定していたビニール紐を切断する。荷台の上でリュックサックを立たせ、どん、と後部座席の足元に突き落とすように車内に入れた。
残るは自転車だ。
後部座席のドアから入れる、というのは自転車の全長からして難しい。自転車を分解すれば可能だが、いくら人気がないとはいえ、あまりに長くこの公園の前に停車しすぎている。いつ人通りがあるとも分からないため、これ以上の長居は避けたい。
いつだったか、父親とホームセンターに買い物に行ったとき、後部座席を前方に倒して荷室を広くした経験を思い出す。あれをして、バックドアから自転車を入れたらどうだろう。
どの車でも倒れるものなのだろうかと案じつつも、北野はスライドドアから足を出すようにしてリュックサックに腰かけた。ヘッドレストの隣にあるレバーに指をかけ、そのまま手前に引き寄せる。倒れた! 立ち上がって車の外に出る。自転車をバックドアの方に引いていきながら「砂日」と呼ぶ。
「何?」
砂日はまだ機嫌がいい。なんでもやってやるぞ、という顔で指示を待ち構えている。いつもこうなら助かるんだけど、と思いながらも無論口には出さない。
「俺が後ろから自転車押すからさ、きみは中から引っ張りあげてくれない?」
思案の末、そう役割を分担した。
全長的に、自転車はハンドルを直角に切って前輪が横を向いた状態で車に収まることになる。北野が倒していない方の後部座席に座って腰を捻り、中から自転車を引っ張り上げた場合、勢い余って義足に前輪をぶつけてしまうおそれがある。万が一にもその衝撃で義足が故障したら目も当てられない。どう考えても、自在に足を動かせる砂日に自転車を引き入れてもらった方がいいと判断したのだ。
「しょうがねぇなぁ」
砂日がいそいそと後部座席に乗り込む。彼は足元にリュックサックのない、倒していない方のシートの上に膝立ちで収まり、倒したシート越しに荷室に手を伸ばす。
「よっしゃ、来いよ」
「オッケー」
北野は軽快に返事をしながらも、荷室を前にうろたえていた。
改めてユウの死体を見て精神状態が均衡を失った、わけではない。
ユウの車は、地面から車内の床までが割合低く作られている。しかし、現在はユウの死体がうずたかく鎮座しているがために、自転車を乗せるにはかなり大きく持ち上げなくてはならないことに気が付いたのだ。
再三になるが、両足が大腿義足の北野は荷物を持ち上げることに長けていない。持ち上げる高さが低ければ、車の床にタイヤを這わせる形でいけるだろう、と踏んでいた。しかし、この高さはどうだろう。
「いよっ、と」
思い悩む北野の前に、ニュッと砂日の腕が伸びてきた。
呆然とする間に自転車が引き上げられ、「うおっ、しょ!」のかけ声とともにすっかり自転車は車内に乗り上げた。見れば、砂日が手のない左腕をヘッドレストの金属棒に引っかけ、右手で自転車のバスケットをつかみ、力任せに引き込んだようだ。
「北野、ドア閉めろよ」
「あっ、うん」
彼の指摘で我に返り、バックドアを閉める。
「ありがとう。助かった」心からの感謝だ。「砂日って頼りになるよね」
「何がだよ」
照れくさそうに笑って、砂日が運転席に乗り込む。彼の側の後部座席のドアが開けっぱなしだ。北野は一切の文句を言わずに閉めに行く。
もうすでに、砂日にしては十分すぎるほど働いてくれたのだ。その上彼にはこれから運転をしてもらうわけであって、あまり多くを求めすぎてはいけない。
「ううっわ、やべぇ、マジ車じゃん。マジで興奮してきた」
北野が助手席に乗り込むと、砂日ははしゃいで車内を見回していた。やがてハンドルに手を伸ばす。
ふっと彼が不思議そうな顔をした。クラクションのあたりを指でなぞり出す。
「どうかした?」
訊ねると、砂日が予想外の、ある意味まったく予想通りの質問をした。
「これさぁ。十字キーとか決定ボタンとかって、どこにあんの?」