雨間
青さ全開でわーーいい思い出だけどはーーずかし!!てなってたんですが
一個今読んでも好きだなっていうのがあったのでアップします
少々表現やら手直ししたけどほぼ原文ママ
雨間
雨が上がるのと同時に、押入れの方から、かたん、と小さな物音がした。
男は慣れたもので、落ち着いた足取りで押入れに向かい、すらりと襖を開く。押入れの上段、畳んだ布団の上の、子供一人が辛うじて座れる高さのスペースに、少女はいた。少女はしばらく迷うように男のほうを見たり逸らしたりしていたが、男がちっとも驚いていないことを知ると、安堵の表情を浮かべた。男は少女に手を差し出す。しかし、彼女はそれには頼らずに、すとんと身軽に押入れの上段から部屋の畳の上へと飛び降りた。とす、という軽い音が、立ったかどうかさえ怪しい。
「何か、食べるものがあるかしら」
少女はぴんと背筋を伸ばし、きょろきょろと辺りを見回した。
「なんでもいいんだけれど。レトルト食品でも、インスタント食品でも」
男は無言で冷蔵庫まで歩いていく。買い出しに行ったのは一週間前。大したものは残っていないが、全く何もないわけでもない。適当にカップラーメンを出しても少女は文句を言わないだろうが、現在の時刻は十二時半。男も腹が空いていた。せっかくだから、彼女の食事のついでに、自分の分も作ってしまおう。幸い、野菜の切れ端とウインナーがいくらか残っていた。これを卵で包めばそれなりのものになるだろう。
「外に食べに行くのは?」
思い立って、男は少女に訊ねた。答えは、実は分かっていたのだが、少し試したくなったのだ。予想通り、少女は笑いながら、首を軽く横に振った。
「おいしそうだけれど、無理ね。私、ここから出られないの」
その声を聞きながら、男はフライパンを取り出してコンロの上に置く。ちらと後ろを振り向くと、少女が戦車のプラモデルを珍しげに眺めていた。彼女が少し身じろぐたび、肩に触れるかどうかのぎりぎりで切り揃えられた髪が、いちいち揺れる。
「最近、多いのかしら。雨は」
こちらを向かないまま、少女が聞いた。男は、返事をしようかどうしようか、少し迷う。この少女は、次の雨が降るまで行くところがないのだから、男が相手をしなくとも、怒って出て行くということはありえなかった。少女も、返事を期待しているわけではないらしかった。ちっとも男の方を見ずに、ただ戦車のプラモデルを手にとってしげしげと眺めている。
とん、とん、とん、と男は手際が良いとは到底言えない手つきで、野菜を適当な大きさに切っていく。玉ねぎ、にんじん。初めはウインナーも入れるつもりだったのだが、やっぱりやめた。どうせ、もう少ししたら雨が降る。ウインナーは夕食に取っておくことにしたのだ。なにも、雨が降ればあっという間にどこかへ行ってしまう少女のために、貴重な肉を消費することもないだろう。
「最近、雨続きだよ」
男が言うと、ようやく少女はこちらを向いた。
「そう。いつ降るかしら。明日には、もう降るかしら」
「そんなにもつかな。天気予報では、夕方に降るって言ってたんだけど」
「夕方? 早いのね。あなたは優しそうだから、少し、残念」
そう言って、少女がぐっとのびをする。純白のワンピースを纏った青白い体躯は、ちょっと力を込めて抱きしめれば、ぽき、と音がしたって驚かないぐらいに細かった。薄い生地のワンピースに、しかし下着のラインは浮いていない。この下は裸体なのだと、男は知っていた。初めて“これ”が来たときに、質問したのだ。そのとき、男は少し驚きながら「危なくないの」と問うたのだが、長い髪をポニーテールにした小柄な少女は、屈託のない笑顔で「何が?」と首を傾げてみせた。男はどう聞いたものか悩んで、「だから、こういうことになったりしないの」とその少女を押し倒した。彼女がまるで平気な顔をしていたので、男は戸惑ってしまった。男にそういった趣味はないため、そこから先には進まずにすぐに彼女の上から退いた。それから、二度、三度、“これ”が訪れて、彼女らと話をするうちに、分かってきた。“これ”は、雨のやんでいる間だけ家に現れる、ラブドールのようなものらしい。どの家にも現れるというわけではなく、『選ばれた』家にだけ現れる。一人暮らしの独身男性の家、という以外の法則は、少女たちにも分からないようだった。
知らない間に押入れに佇んでいること、雨がやむとすぐに消えてしまうことから、彼女らが人間でないことは分かっていたが、ラブドールというのはさすがに面食らった。だが、男はやはり“これ”に手を出すことはしなかった。男は年端も行かない少女に興奮などしないし、それに、下手に手を出して、うっかり知らないところから法外な料金を請求されたらたまらない。彼女らは決まって「心配しなくても、サービスは無償よ」と笑うのだが、信用できたものではない。
コンロに火をつけ、フライパンに油を引き、刻んだ野菜を炒め、あらかじめといておいた三つの卵を流し込む。菜ばしでかき混ぜ、蓋をして少し置く。火が通ると、大きめの皿に丸ごと移し変えた。知らないうちに、少女が男の隣に立っている。男が少女のほうを見ると、少女も男を見た。男は、すぐに目を逸らす。少女も、不躾に男の顔を覗き込んだりはしなかった。炊飯器は空っぽだった。今から炊くのも待ちきれないので、男は冷凍していた食パンを二枚取り出し、トースターにかける。オムレツ、というには不格好な卵料理を前に少女は今にも涎を垂らしそうだった。
「食べてもいいよ。こっちが君の分」
男は皿を背の低い小さなテーブルに置き、卵料理の真ん中を箸で割って半分を指した。
少女たちは、いずれも上品で繊細な見た目をしていた。その容姿とは裏腹に、みな、意地汚くさえある勢いで食事を貪った。雨が降れば、有無を言わさず消えてしまうのだ。次に現れた先で食事にありつけるとは限らない。食べられるうちに食べようと、育ち盛りの彼女らは必死なのだろう。それを思うと、普段なら眉をひそめるような下品な食べ方が、男には微笑ましくさえ感じられた。
「このあと、するのよね」
汚れた口元をぐいっと右手の甲で拭いながら、少女が顔を上げた。極めて普通の顔であった。「いや」と男が控え目に首を振ると、少女は目を見開いた。彼女の左手に掴まれていた卵のかたまりが、ぼとりと膝の上に落ちた。純白のワンピースが汚れる。
「え、どうして?」
「どうしてったって」
「私がどういうものか、知ってはいるのでしょう。だってあなたは、私を見ても驚かなかったのだから」
「知ってはいるよ」
「しないの?」
「しないよ」
「好きなことだけ、すればいいのよ? 面倒な手順は、全部飛ばしたっていいわ」
「したいの?」
「さあ」
彼女が笑った。とても無邪気な笑みだったので、男もつられて笑ってしまった。
「だけど、そうね、したいかどうかは置いておくとして、してもらわなくちゃ、少し困るわね」
「どうして?」
「五人連続で何もせずに帰ったら、偉い人に廃棄されちゃうの。それで、今、あなたが五人目」
「あ、そうなの?」
初耳だった。だとしたら、今まで相手をせずに帰した子たちの中にも、自分のせいで廃棄されることになった子もいたのだろうか。男の中に、少しの罪悪感が湧き上がる。
「じゃあ、しようか?」
「そうね、そうしてくれたら助かる」
笑顔のままで、テーブル越しに少女が男へ手を伸ばした。つられて、男も手を伸ばす。しかし、その手と手が触れ合うことはなかった。ぱた、と雫が屋根を打つ音。天気予報は外れた。次の瞬間には、もう少女は男の部屋から消えていた。どこかへ行ってしまったのだ。いや、今の話が本当だとすれば、廃棄されてしまったのだ。
男は、ぼんやりと窓の外を見る。雲は薄く、雨はほどなくやんでしまいそうだった。